「東京の桜は白い」

「東京の桜って白いよね」と言ったのは大学時代を桜の名所・弘前で過ごした知人である.何の話でそんな会話になったかはもう忘れた.いやしかし,そもそも桜とは白いモノなのではないか?ソメイヨシノは白い.そしてそれ以外の早咲きと遅咲きの桜は色が濃いという印象がある.別のソメイヨシノが“本物の”桜と言うわけでもないのだが,何となく色濃い桜はパチモノ感がある思ってしまう.
しかし,“あの”弘前で何度かの春を迎えた御仁がそう言うのなら,やはり東京の桜は白いのだろうか.そう思って記憶を掘り返してみても,よく考えれば東京以外の満開の桜を直接目にした機会は実はあまり多いわけではなく,ちょうど良い比較対象が記憶に残っていない.
まったく桜ってやつは.冬ですって顔をしていた3月がいきなり春に化けて一斉に咲いて,そして一週間もしたら散っていく.その夏のセミみたいな生き様故に,遠隔地の桜を狙って見るのはハードルが高い.だから東京の桜が白いのか実感としては「わからない」のだが,たぶん東京の桜は白いのだろう.それくらい弘前の桜への信頼度は高い.
そんな白い桜の咲く春を,いつも通り東京で迎えた.
カメラ趣味初期の「その辺のモノを何でも撮るのが楽しい」感受性の高い時期はとうに過去のものとなっていて,最近は週末だからと敢えてカメラを持って意味もなく出かけることもなくなった.そんな自分をも「今日,髪切りに出かけるからついでにカメラ持っていこうか」と思わせるくらいには「被写体力」がある.その白い桜には.
久しぶりにカメラを持ち出したからか?ついでに新調したカメラバッグとレンズを持っていたからか?それとも花粉症の症状が収まってマスク無しで外を歩けるようになったからか?それとも単に桜が咲いていたからか?いずれにせよ,その日の自分は,やけにご機嫌だった.
これは異常事態だ.平日は飯を食って仕事をして寝て,休日も飯を食ってYouTubeを見てプログラミングして寝る.起伏のない人生である.ここ数年来,ご機嫌な自分にお目にかかったのは海外旅行中だけだ.ご機嫌な自分が日本に,しかもここ東京に居る.これは異常事態だ.Jアラートを鳴らしても良いとすら思う.ご機嫌な奴が荻窪から発射されている.
そのご機嫌さ故に,美容院で髪を切られている間,非常に珍しいことにちゃんと雑談をした.何を言っているのかという感じだが,普段は「あ,前回と同じくらいで……」と言った後はひたすら無言で座っているのだ.いわば置物だ.置物が雑談をするか?いやしない.それが雑談をしている.やはり異常事態だろう.
自分の身体が自分じゃないみたいだった.結構長いことお世話になっているところなのだが,今まで行ったことのないエリアの席に連れて行かれたんだよね.で,「こっち側来るの初めてですね」みたいなことを言った.自分から.言ってから「!!?!?」みたいになった.喋ってるぞ自分!?みたいな.
その後も髪を切られながら何やかんや雑談をしていた.途中で「どうやら今日の自分はご機嫌らしいな」と気づいたのだ.普段の自分は機嫌以前に雑談が苦手だ.それは話したい話したくないとかではなく――話したくはないんだけど――,話題が無いからだ.無難な,当たり障りのない会話というのは非常に難しい.当たり障りがあるエピソードトークならいくつかあるのだが.それ故にいつもは黙り込んでいた.
それがどうだ.機嫌さえ良ければ自分は雑談をできるらしい.これは31年目の発見である.同僚とのランチとか,上司との1on1とか,いつも話すネタが無くて困っていたが,ネタを探すのではなく機嫌さえ良くすれば良いということらしい.
問題は,どうやれば機嫌が良くなるのかわからないということなのだが.
そのままご機嫌な雑談を続けて,最後のほうに何かの流れで白髪の話になった.仕事の出張の話をして,それで「出張で泊まったホテルのデスクの眼の前にデカい鏡があって,照明の加減もあってメチャクチャ白髪が目立つんすよね」みたいな流れだったと思う.
すごくないか?これ.ご機嫌な自分は話題から別の話題に膨らませることすらできるのである!普段は苦し紛れのトークテーマが終わったら,もう切るカードが無くてスンッとしているのに.ご機嫌であれば次の話題に繋げることが出来るのだ.ご機嫌な自分は割と何でもできるらしい.
白髪トークは続く.白髪染めとカラーっていうのがあって……みたいな.色々教えてくれた.白髪染めよりカラーのほうが頭皮へのダメージが少ないので良い,みたいな話だった.「『白髪染め』より白髪染めてる感が出ないんで心理的負担少なくていいですよね」みたいなことを言った気もする.
そうしたら「でもまだそんなに白髪多くないんで.まだ染めなくて大丈夫だと思いますよ.10%くらいですかね,まだ」って言われた.
いや10%って多すぎるだろ.もう染めさせろよ.ちゃんと営業しろ.

髪を切り終わってそのまま東京の白い桜を見て回って家に帰った.気になって鏡を見たら,ヘロヘロになった白髪がアホ毛のように飛び出していたので,引き抜いておいたけれど,白髪はまだ量的には10%も無かった.無いと信じたい.
ご機嫌な春の日.来年も東京の白い桜が咲いたら,白髪のことが気になってしまうのだろう.まだ10%に満たないでいてくれと願うばかりだ.白い桜があっという間に散っていくように,白髪も散って行ってくれると良いのだが.