Bluelight Sonata

Shibuya Hikarie, Tokyo.

世は大「推し活」時代である.

「推し活」という言葉の浸透の速さが恐ろしい.特定の界隈だけで使われている単語と認識していたら,次の瞬間どいつもこいつも「推し」などと言い始めた.一晩で世界が改竄されたかのような錯覚すら覚える.一般市民に受容された「推し」なる概念は,何でもかんでも推しの対象にして世界を埋め尽くしている.記憶が正しければ自分の身近な人間で最初に「推し」などと言い出したのは新卒の時の会社の同期で,奴は同じチームの先輩が「推し」だと言っていた.そして世には「会社が推し」だと言う奴も居るらしい.あまりに狂気と言わざるを得ない.「金があるなら働きたくない.宝くじ当てて仕事やめるのが夢」でお馴染みの――そういえば今年も宝くじは外れた――自分とは対極の世界観で仕事をしている人がいる.


さてそんな推し活全盛の今,自分が一体何を「推し」ているかと考えてみると,何も無い.何推しですね,と答えられるものが思いつかない.

振り返ってみるとその昔の界隈は「俺の嫁」という表現があった.当時のヲタクは平気で重婚していた.作品別に嫁が居るくらいならまだマシで一作品に複数の嫁がいるまであった.ついでに言うとそもそも現代よりハーレムモノが流行っていた.あの頃のアニメオタクの例に漏れず「俺の嫁」がいた.

しかしいつの間にか「俺の嫁」という概念は廃れていったような気がする.こうして振り返ってみると,「俺の嫁」と「推し」には似た概念があると思わされる.二推し三推しとか推し変とか……そういう表現こそ無けれどもそれに近い行為や考え方は「俺の嫁」時代にもあったように思う.気がつけば「俺の嫁」は「推し」に衣替えされていた.

そして「俺の嫁」から「推し」への乗り換えに失敗し,2010年代前半の世界観に取り残されたのが自分である.高校生くらいまでは「俺の嫁」がいたと思うのだが.その後何の前触れもなく「嫁」は消えていき,「推し」は現れなかった.


「俺の嫁」と「推し」の違いは何だろうかと考えるに前者は内向きで,後者は外向きだと感じる.つまり前者は別に「お前らの嫁」として生み出されていないモノを勝手に嫁認定している.こちらが好きでそうしているだけなのだ.そして「布教」したいというパッションもあまりない.自分が分かっていれば良いのだ.何なら他人に理解されなければされないほうが良いかもしれない.

一方で「推し」は,より作為的な何かを感じる.つまり「推す対象として作られたモノ」だ.「推しやすいように作っている」と言っても良いかもしれない.「さあどうぞみなさん推してくだせえ」というお膳立てがある.そして「推し」はその熱意が外側に向いている.周りに布教していこうというパッションを感じる.

「推し活」は高度に設計された集金装置なのだろう.母性とか父性とか愛情とか,人間が動物的に抱えている本能を巧みにくすぐって,そのためにお金を払うことが快感かのように錯覚させる資本主義の極致.これは「推し活」批判ではなくて,むしろ「よくぞここまで人間の本能を刺激して集金するモデルを作り上げたなあ」と関心するまである.世の消費活動は多かれ少なかれ,そういう設計がされている.言うまでもなく我々は「推し活」以前に砂糖とカフェインと糖質と脂質の奴隷なのだ.コロナ禍で明らかになった通り,我々の暮らしは「不要不急」にお金を使うことで成立している.それが「搾取」と言われるかは,社会がどう受容するかの違いでしかない.だから「中毒性のある推し活ビジネスは許されるべきなのか」というような議論にはあまり興味がないし,社会問題のように扱われるのも腑に落ちない.

しかしその「人間的本能」をくすぐる集金装置にくすぐられても「何も推せない」自分は一体何なのか.コンテンツに触れていないというわけではない.動画を見たことはあるし曲を聴いたこともあるけど,「応援し布教していきたい」とまでは全く思わない.好きか嫌いなのかと言われれば,どちらかと言えば好きなのだろう.動画も見るし曲も聴き続けるのだろう.しかしそれを「応援していこう」という灯火は,一向に灯らない.


推し活が母性とか父性とか愛情とか,人間が動物的に抱えている本能を巧みに操るものなんだとしたら,それに操られていない自分は,真っ当な人間に備わっているものが欠落しているのだろうか?

「推し活疲れ」だの「依存症」だのを生み出すほどに高度な集金装置「推し活」.しかし「推せる」だけ数倍人間らしいと言えるのかもしれない.と,何も推せない自分はそう思うのだ.