#26 傍観者 | 根暗草子
1年以上前,人生で初めてライブなるものを観に行った.場所は横浜・みなとみらい.当時はまだいわゆる「声出し」がNGだった.その時の感想として「サプライズ発表を受けたとき,声出しNG故にどよめきに満たない驚きが会場内にさざ波のように広がっていくところが好き」と述べたのを今でも覚えている.
そしてちょうど1年前,1回目のライブ経験に味を占め,再びライブなるものを観に行った.奇しくも再び会場は横浜.この時は「声出し」が解禁された.コロナ禍になり数年「声出し」をNGされ続けた観客は,ついに解禁された「声出し」で大いに盛り上がっていた.
そして会場が盛り上がれば盛り上がるほど,そのノリについていけない自分がいた.
どうもこういう「みんな」に溶け込めないのは結構前からで,少なくとも高校の頃にはそうだった.「ちょっと男子ちゃんとやってよ~」系の女子が言う「みんなでやることに意味がある」みたいなロジックが本当に苦手で,その君の言う「みんな」に入れないで欲しいのだが,と心底ひねくれたことを思っていた.「みんな」に入会届を出した覚えはないのだ.
どうしてそういう捻くれ方をしてしまったのかは分からないが,まあでもそういう生き方を続けてきてしまったので,今でも「みんな」に溶け込むのが苦手で,傍観者たれ,といつも思っている.最近分かってきたのだが,人数が一定以上を超えた飲み会になると完全にスイッチがオフになってしまい,口を開く気力も無くなって愛想笑いをするしかできなくなってしまうらしい.それに気づいて以来,飲み会の人数をカウントして自分の閾値を探そうとする方に意識が向いている.「みんな」どころか自分をも傍観しているような気がしてくる.
いや一応思ったんだよ.せっかくライブ来たわけだし,「みんな」に入り込むのが苦手でぇ,とか言ってないで盛り上がろうぜって.声出そうともした.本当に出そうとしたんだよ.でも驚いたんだけど,もう最後にいつ大声を出したのか忘れてしまっている自分の身体は,大声の出し方すら忘れている.大声ってどうやって出すんだっけ?それこそ,中高生くらいの頃は誰も居ない橋を渡る時に大声で奇声を上げていたりしたはずなのだが.
震わそうとする声帯からは小声しか出なくて,いよいよライブは声出しNGの時のほうが楽しかったなと思った.自分が求めてたのはライブじゃなくてコンサートなんだなとも思った.ペンライトで虹色つくる恒例の演出も,自分がその虹を成すペンライトのうちの2本を持っていることの喜びよりも,「これ外から見たらめっちゃ綺麗なんだろうな」という傍観者みたいな感想のほうがよほど強かった.
なので,1年経って再び開催されたライブは本当に外から見た.ライブ,中から見るか,外から見るか.自分は圧倒的に外のほうが良かった.自分でも訳わからん.でもしゃーない,そういうものだ.