#18 言語が人格を支配する | 根暗草子
なんとなく雪を見たくなって,北海道に行った.取れた休みは3連休.3連休だと実家への帰省は難しくて──難しいと言うか効率が悪い.1日目と3日目が全部移動で終わってしまう──,向かったのは2年ぶりとなる釧路.
1日目から2日目の朝は阿寒湖畔の温泉ホテルでのんびりと過ごした.アイスバブルを見たくて遠路はるばる阿寒湖まで行ったのだけど,綺麗なアイスバブルは見つけられなかった.そんなこともあろうかとちょっと良い温泉ホテルを選んでおいたのは正解だった.自然現象に左右される撮れ高一本足打法で旅行すると,不発だったときのダメージが大きい.
なんと言っても一人旅なので,お目当てが不発だったときに「残念だったねー」とか,共有する相手がいない.残念がるコミュニケーションを楽しむということができない.ただただ一人でお通夜みたいになってしまう.だからこそ,そうならないためのプランBが大切なのだ.温泉と料理は俺を裏切らない.
そんなこんなで「アイスバブル無理だったか~やっぱ自然現象は裏切ってくるよな~」と思いつつ──繰り返しになるが声には出していない.相手がいないので──,翌日は釧路から路線バスに揺られて,タンチョウヅルを見るべく有名なスポットのある鶴居村へ.有名なタンチョウヅルスポットの近くを通るバスだけど,やはり車で観光するのが主流なのかバスは土曜にも関わらず閑散としていた.地元民らしきおばあちゃんと,観光客風の乗客が1名ずつ,そして自分.
温泉と料理は俺を裏切らないが,タンチョウヅルは野生動物なので裏切ってくる可能性がある.「鶴が居ます!」というスポットに鶴がいない,ということが普通にあり得る.「鶴不存在村に改名しろ」とツイートしながら釧路に戻る可能性が十分にある.そんなことをぼんやりと考えてバスに揺られていると,突然観光客風の乗客が横に来てスマホを差し出してきた.
スマホにはGoogle翻訳の画面が映し出されていて,その乗客は訪日観光客だった.地方のバスあるあるの「自由乗降区間」とかも相まって降りるところがメチャクチャ難易度高い感じになっていて,どこで降りればいい?ということを知りたかったらしい.いきなりおずおずとスマホを差し出されたので本当にびっくりした.ここ3年弱,こうして外国人に道を聞かれるようなこともなかったので,旅先でこういうイベントが発生する可能性がある,ということも忘れていた.
映し出されていたのは繁体字だった.なるほど台湾人らしい.自分はせっかちなのでスマホでポチポチやって翻訳しながらコミュニケーションを取るのも面倒.かと言って中国語は話せない.一応大学で2年くらい勉強したはずなのだがほとんど覚えていない.唯一話せる中国語は「我是日本人」,つまり「私は日本人です」しかない.あと「マー→マー↑マー↓マー→↓」とかみんなで練習させられたイントネーション習だけだ.この場では全く役に立たない.マジでなんだったんだ第二外国語の授業.
一か八かで英語で話してみることにした.経験上,日本に観光に来た外国人はだいたい英語を解す.こちらも大学院を修了していらい4年弱英語をちゃんと話す機会もなく,まだ話せるかは不安だったが,そこはお互い非ネイティブなので適当な英語で何とか話をつなげていく.そうして初めて日本に来たという台湾人との会話が始まった.
「どこから来たの?」「自分台湾行ったことあるよ!」とか,「地方のバスって外国人観光客には難しいよね!」とか,色々話した.しかしこれはよく考えると異例なことだ.
普段,旅行中に日本語で日本人に話しかけられたときの塩対応っぷりは我ながら凄まじい.「お兄さんどちらから?」と聞かれても「東京です」で終わり.「あなたはどちらから?」とは聞き返さない.言ってしまうと興味ないし.「日本の人口分布的にそこそこの確率で東京か大阪だろ」と思っている.もっと込み入ったことで話しかけてくる人が稀にいるが,伝家の宝刀「へぇ~そうなんですね」で終わり.こちらからは一切会話が広げない.それが自分の持っている日本語使いとしてのペルソナ.
一方で自分の拙い英語は,大学院で留学生があまりにも多い──普通に国内の大学だったのに日本人がマイノリティだった──ので,意思疎通のために仕方なく覚えたという背景がある.そして留学生は一般に,日本人が日本人に対してする距離の詰め方よりもガツガツしている.滅茶苦茶に距離を詰めてきて一気に懐に飛び込んでくる.英語は"そういう場面"で使う言語であり,ペルソナだ.
そういう背景もあり,日本語を使っている時の自分と,英語を使っている時の自分は明らかに人格が違う.自分で話していてそう感じる.端的に言うと英語を話しているときのほうが愛想が良く,人当たりが良い.日本語モードだと陰キャの極みだが,英語だと──日本語の時のそれと比べて,程度だが──陽キャ寄りの人格になる.「コミュ障なのに仕方なく使っていて,できればコミュニケーションしたくない場面で使うことになる母語日本語」と「コミュニケーションに迫られて使う英語」,その背景の違いが,使う言葉が人格を作り出している.
そういうわけで,鶴居村に向かうバスでも,鶴居村から釧路に帰るバスでもその台湾人とは延べ1時間半くらい普通に雑談していた.これは旅行中の雑談時間新記録である.日本語だとあり得ない.そもそも,旅行中かを問わず,去年1年間の日本語での雑談時間の総計ですらこの時間を超えていない.
せっかくなので記念に,ってことで釧路に着いてから一緒に写真撮って,インスタのアカウントを教え合って別れた.これも日本語人格だとあり得ないな.
こうして久しぶりに英語の仮面を被ってまっとうな人間っぽく振る舞ってみて,仮面を被れるなら日本語を使うときもそうすればいいのに,そうしたほうが人生色々得なんじゃないかと思いつつも,やっぱりそれは疲れるし,秘めたるアイデンティティが崩壊してしまうので,やっぱり無理だ.
翌日,釧路から東京に帰る日.ホテルのチェックアウトと,空港のチェックインと,空港のレストランでラーメンを注文するとき以外は一言も言葉を発さなかった.