#03 迫りくる表情の洪水 | 根暗草子
記憶が確かなら,「カメラに向かって笑う」ことを意識的にできなくなっていることに気づいたのは高校の卒業アルバムの個人写真を撮ったとき.
「意識的に笑う」という行為をする頻度は意外にも少ない.無意識に,例えば面白い話をして笑うことは日常のあちこちにあるけど,「笑おうと思って笑う」機会はそれこそ写真を撮るときくらいしかない.
ただし例外があって,インターネットの民としてはコミュニケーションでは「ワロタ」とか「w」で意識的に笑う必要があるので,自分にとって意識的に笑うとは即ち「ワロタ」とキーボードを叩くことと同義になる.
そして「ワロタ」ときの顔は,真顔だ.写真を撮る時に笑顔を作れない原因はここにあると思っている.自分にとって「意識的に笑う」行為の中に,表情を作ることが入っていない.
そういう意味で言えば,コロナ禍はなかなかに都合が良い.仕事でもオンラインのコミュニケーションが増え,せいぜい電話をすることがあるかないか,という感じ.たまに対面で話すときもマスクをしているので表情を変えなくても何ら不都合がない.表情筋の死んだコミュ障としては,ここ1年は天国みたいな環境だった.
そうこうするうちに,自分の表情筋が死んでいたのは前からのことだが,加えて「他人の表情」を見る機会が減った.中にはこれが辛いと感じる人もいるようだけど,自分の表情筋が死んでいるのに他人の表情が見れずに困るなんてそんなことはあり得ないので,個人的には全く支障もなく,何なら「他人の表情」を見る機会が減ったことにすら気づいていなかった.
それに突然気づいたのは,最近の電車のドア上によくつけられたディスプレイを眺めていたときのこと.
今まで意識したことはなかったのだが,よくよく見てみるとドア上の映像では一般のそれと比べて表情が目まぐるしく,そして明確に変わっていく.多分,音声を伴わないからだろう.声のトーンで楽しい感じを出せないのなら,顔でそれを表現するしかないのだから.
結果,電車のドア上の広告では,自分のライフスタイルから見れば異常としか言えない表情から溢れる情報が洪水を起こしている.そしてなまじ音がないだけにその迫りくる表情の洪水が強調される.
普段他人の表情を見る機会が減っていたところにその情報量はあまりに多くて,見ているだけで疲れてくる.ドア上の映像にはタレントとか出さないでほしい.ただ,テキストでニュースを流してくれればそれでいいのに.