Bluelight Sonata

2026-01-31

ノートに佇む、地蔵のように | Interlude

Interlude / camera α7CR / lens SEL24105G / location Italia
Noto, Sicilia, Italia.

シラクーザからバスに1時間ほど揺られて向かったのは,「ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々」の一つ,ノート.イタリア語で書くと"Noto"となるのだが,ソフトウェアエンジニア的には"Noto Sans"というフォントを思い浮かべずには居られない.

10月の平日.バカンスシーズンは終わり,夏が終わり冬に入ろうかという頃.どちらかというとオフシーズンなんだろうと思う.それを裏付けるかのように,シラクーザからノート方面へ向かうトレニタリアの列車は,春まで長期の運休となっていた.バスと鉄道どちらを好むかと言うと圧倒的に鉄道なのだが,仕方なく駅前のバス乗り場に向かう.そこには同じように鉄道を使えずバスに乗らざるを得ない人が多いからか,チケットを求める長蛇の列ができていた.

こういう時に毎回不思議なのだが,自分の前に並ぶ人はチケットの購入にやたらと時間が掛かる.チケットを買うだけで何故そんなに時間が掛かるのか?時間を要する複雑な何かがあるのか?と思うものの,いざ自分の番になると「ノートまで大人1枚」「往復?帰りの便どうする?」「14時半ので」というやり取りで,一瞬でチケットを買うことができる.一体全体,みんなチケット窓口で何をやっているのだろうか?

そういうわけで自分がバスに乗り込んだのは,発車時間のギリギリになった.自分がチケットを買う時間というよりは,待ち時間のせいでハラハラする羽目になった.今回のバスのチケットは実は事前にネットで購入しようと思えばできたのだが,「何時のバスに絶対乗らなければいけない」と行動が縛られるのが嫌で,つい現地でのチケット購入を選んでしまう.その結果,こうやってバスに乗れるかハラハラさせられたり,ひどい時だと満席になってチケットが買えなかったりもする.毎度そんな顛末なので,今度こそ事前にチケットを抑えよう,と思うのだが,なかなかどうしてチケットの現地調達をやめられない.


ノート行きのバスは,てっきりノート直行便かと思っていたのだが,途中でいくつかの街に立ち寄り,そこでも人が乗り降りしていた.

シチリア島のバスはなかなか難しくて,時刻表も読みづらいし,そもそもバス停がどこにあるのかの情報もはっきりしていない.現に途中に停まったバス停は,パッと見「バス停」っぽいものはなかったように思えるのだが,どういうわけか地元の人々は特に苦も無くこのバスを日常の足として使っているようである.



ノートに着いたバスを降りて,ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りを歩くと,これは世界遺産になるのも納得というバロック様式の建物が立ち並ぶ街並みが広がっていた.そしてオフシーズンと思っていたこの季節にも,結構多くの観光客が街歩きを楽しんでいた.写真趣味的には,あまり観光客がワラワラいるエリアというのは実は写真を撮りづらくて……お前も観光客のうちの一人だろうと言われるとぐうの音も出ないのだが,いつもと同じように観光客で賑わう通りから伸びる静かな路地に吸い込まれていく.その先は観光客っぽい人はいない,多分ローカルなエリアだ.

被写体によるのだが,自分は「絶対構図内に人を入れたくない」という信念があるわけではない.もちろん被写体によっては,人がいないほうが美しいモノというのもあると思うのだが,人が多少紛れているほうが生活感があるし,スナップショットとしてはアリだとも思っている.

ただ,スナップショットとは言え「そこに立たれちゃうと成立しないんだよな」って思うことは多々あって,そういう時にどうするか迷う.そのスナップショットとは縁が無かったものとして諦めて歩みを続けるか?それともそこに地蔵のように佇み,その人がそこから立ち去り,構図が回復するのを待つか?そこまでしたら,それってスナップショットなんだろうか?と思わなくは無いけれど.

自分は割と後者を選ぶことが多い.特に遠い異国の旅先では,もう二度とそこに来ることはない.となると,多少待ってでも撮りたい構図で撮っておきたいという欲が出てくる.ただし一方で自分はその街にお邪魔している身なので,あまり「あいつ写真撮りたそうだしどいたほうが良いかな」と思わせたくはない.だから,少しだけ離れたところで,地図でも調べているフリをしながら,目線だけが「あいつ早く動かねえかなあ」とばかりに――気づかれないように――向いている.

それを街を歩きながら繰り返すので,ただ街を散歩するだけで異様に時間が掛かるのが自分のスタイルである.



ただ最近気づくのは,そうやって苦難の地蔵タイムを終えた後にパシャパシャと撮った写真を,帰宅してから取り込んで編集していると「なんでこんなしょうもない構図に時間を掛けて,何枚も撮ってるんだ?」と思うことが多いという事実である.あれだけじっと佇んで狙い通りの構図で撮ったはずの写真が,ボツとしてあっさりと削除されていく.あの場所で佇んだあの時間は何だったんだ?と思わざるを得ない.

一方で,その場で特にこだわりもなく思いつきで,構図も考えず適当に撮ったはずの写真が,帰宅後に取り込んで見ると自分の中で大ヒット,ということもまた,とても多い.撮った時には何も考えていないはずなのだがどうして……謎である.

一つ考えられる原因があるとしたら,現地のその場で感じた感性と,帰宅後にそれを俯瞰する感性にズレがあるのか?というのが仮説になる.多分,特に海外で街を歩いているときの自分のテンションと,荻窪でパソコンに向かっているときの自分のテンションには大きな差があるんだと思う.そこに「こだわりだったはずの写真を次々捨てていく」理由の鍵が,きっとある.

であるならば,だ.だとすると,撮った写真をその感性と温度感のまま取り込んで編集すれば,その写真はきっと自分の中で会心の一撃になるはずである.この仮説は是非検証したいと思っていて,旅行に持っていく用のラップトップを買う必要があるぞ,と思っている.散財するいい理由ができたとは思っていない.これは必要経費なのである.

でももし,仮に旅先の現像ですら地蔵して撮った写真を捨てるようなことがあれば…….その時は自分のフォトウォークスタイルを見直すべき時なのかもしれない.