読むように登る
最近,また山登りをするようになった.遡ること4年前,何かのきっかけで燕岳という山に登ってみたいと思って,登山靴を買った.お試しがてら燕岳とは比べ物にもならない低山に登って,そしてそれっきりになっていた.
性格上,普段はモノを捨てられないのだが,部屋のエントロピーが臨界を迎えるときには割と容赦なくモノを捨てる.最近着ていない服とか,何故買ったのかも思い出せない運動靴は,まだ使えるとか,使うかもしれないとか,そういう事情を鑑みずに,捨てている.
そういう性格から見れば全く異例なことなのだが,登山靴は2021年になった今でも下駄箱に収まっていた.この4年,引っ越しを挟んで大量のモノが捨てられたのだが,無駄なもの筆頭に君臨していた登山靴は,どういうわけか手元に残っている.
4年越しに唐突に山登りに興味を持って,謎の残留を遂げていた登山靴はかなり都合が良かった.それなりの高さの山ならともかく,気軽に登る標高数百メートルの低山くらいなら,靴さえしっかりしていれば後は割となんとでもなる.
後は気休め程度に化繊の乾きやすい服を手に入れて,登山地図にはあるけれど一般の知名度は低い,でも景色は良い,そんな山を選んで登りはじめた.もし登山靴が捨てられていたならば,多分買い直してまでは山登りをしなかったんじゃないかな.
2回目の──4年前を含めれば通算3回目の──登山で気づいたのだが,山登りは読書と似ている.
本の読み始めは楽しい.ただ,少し読み進めると途端に飽きてくる.何のために本を買ったのかもわからなくなって,ただ買ってしまったものは仕方がないので読み進めていくだけで.
最早,本を早く読み終えるためだけに読んでいる.残りのページをパラパラと捲って,あと何ページでこの章が終わるかな,あとどれくらいで読み終わるかな,とチラチラ気にしながら.頭に入ってこなくてもただ,文章をなぞっていく.
山も,登り始めるときは楽しい.登山口に辿り着いてついに登り始めるんだ,というところまでは.登りはじめてしばらくすると途端に辛くなる.なんでこんな山に登ろうと思ったんだっけ,という思いが頭をよぎる.
低山とは言えど,中腹の急登に汗が滲む.ここまで来たのだから登り切るしかない.ただひたすら,早く頂上に着くことだけを願って進んでいく.周りの景色も,よくわからなくなる.必然,コースタイムよりハイペースでがむしゃらに斜面を駆け上がっていくことになる.
地図の確認も程々に駆け上がっていくと,思いがけず早くに頂上にたどり着いて,驚きと共に嬉しさがやってくる.読書に喩えるなら,まだたくさんページが残っていると思ったら「訳者あとがき」が出てきたときのように.
こんな考え方で果たして「最近登山が好きです」なんて言って良いのかは果てしなく微妙ではある.
ただ,同じく傍から見たら到底好んでいるように見えない読書も,細々とではあるし,量は多くないけれども続いている.登山も同じように細々と続けていけたら良いと思う.