Cinematic Yokohama #01: 代償
アルバムを見返すと,だいたい1ヶ月か2ヶ月に一度はカメラをぶら下げて横浜に行っているらしい.割と病的だと思う.
元はと言えば,予想に反して6年に及んだ横浜暮らしで撮り残したあれこれを――カメラをはじめてしばらくは「なんでもない街を撮る」という考えがなかったので色々撮り残していたのだが――回収しに行くという側面が大きい行為だった.
ところが正味の話,横浜に“なにかがある”のは海沿いの一部だし,“なにもない”かつての日常もせいぜい生活圏は保土ヶ谷の一部に限られていたのが本当のところで,さほど多く撮る場所も残っていたわけではなくて.早々にネタが切れるのは火を見るよりも明らかだった.
そしてそれには昨秋くらいから薄々勘付きはじめていたけど,気づかないフリをしていた.季節を変え,時間を変え,レンズを変え──レンズを変えれば撮りに行く理由になると考えるあたりが沼としか言いようがないが──,色々と理由をつけて横浜に足が向く日が続く.
ネタ切れにはさすがに気づいていたけど,それでもなお理由をつけて横浜に行く心理だけはよくわからないと思っていた.ただこの日,ごく一部の天気予報サイトが示す晴れ予報だけを理由にして再び出向いた梅雨終盤の横浜,大黒ふ頭で釣り人に囲まれながら遠くみなとみらいを見上げながらふと思ったのは,惜しんでいたのは撮り残した何かでも横浜という街でもなく,6年間の生活そのものなんだろう,ということ.
日曜日の夜,布団にくるまってどれだけ強く神に願ってももうあの頃には戻れない.なので,横浜を撮ることを名目にして,せめて物理的に近ければ多少は惨めさも消えるという理屈で,とりあえず横浜に行くという代償行為に勤しんできたのがホントのところなんだと,そう思った.
だから,もはや「何を撮れるか」なんてことは関係がない.もっというとカメラがなくても横浜に行って良いし,行くべきとすら言える.
いつかの未来,この詣が続かなくなったとき,その時には内面で何かしらのドラスティックな変化があったしるしだ,とも言えるのかもしれない.